ジーコは何がすごかった?鹿島アントラーズに来た理由&功績

ジーコは何がすごかった?鹿島アントラーズに来た理由&功績 サッカー

「サッカーの神様」とも称されるブラジルのジーコ。

日本の鹿島アントラーズでプレーしたり、日本代表監督を務めたこともあり、サッカーファンで彼の名を知らない人はいないでしょう。

しかし、ジーコが主に活躍したのは今から30~40年も前のこと。現役時代を知らない人だと「どれほどすごかったの?」と疑問に感じてしまいますよね。

この記事では、キャリアごとにジーコの成績を振り返り、彼がいかにすごいサッカー選手だったかを解説します。

【ジーコの凄さを3行で】

  • 「史上最高」のブラジル代表で「黄金のカルテット」を形成
  • フラメンゴ(ブラジル)で530試合327得点、世界一にも輝く
  • 1994年に外国人唯一の「内閣総理大臣顕彰」を受賞

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「ジーコ」はあだ名 | 本名やあだ名の意味は?

みささんが知っている「ジーコ」という名前は、実は本名ではありません

まずはジーコというあだ名がついた理由や意味、他の愛称を紹介しましょう。

本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ(Arthur Antunes Coimbra)
愛称Zico(ジーコ)、Galinho de Quintino(キンチーノのにわとり)、Galo(にわとり)
出身ブラジル・リオデジャネイロ
生年月日1953年3月3日
現役年数23年(1971~1989年、1991~1994年)
身長・体重172cm・72kg
ポジションMF(ミッドフィルダー)
背番号10
利き足

ジーコの本名(フルネーム)

ジーコの本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ。

もともとポルトガル系の移民で、ジーコの父もプロ契約寸前までいくほどサッカーの上手な人物でした。

トゥカーノ君
トゥカーノ君

6人兄弟の末っ子として生まれたジーコは、子供の頃からサッカー選手になることを夢見ていたよ。

ジーコはあだ名で「やせっぽち」の意味

「ジーコ」というあだ名が定着したのは、幼少期のこと。

体が小さかったことから「アルトゥールジーコ」と呼ばれ、末尾のジーコだけが定着しました。

この「ジーコ」は、ポルトガル語で「やせっぽち」という意味を持ちます。

また、兄が所属するチームが点を決めるために鶏の鳴き声を真似ていたことから、「ガリーニョ・デ・キンチーニョ(キンチーニョのにわとり)」と呼ばれることも。

ヒロ
ヒロ

キンチーニョはリオデジャネイロ北部に実在する地名です。

愛称は「サッカーの神様」

ジーコは、天才的なサッカーセンスから「サッカーの神様」と呼ばれます。

他にも「白いペレ」と称されることもあり、ペレ本人も「これまで私にもっとも近づいたのはジーコだった」と認めています。

【キャリア別】何がすごい?ジーコの成績

続いて、ジーコがいかに凄い選手だったか、以下の3つに分けて成績を振り返りましょう 。

  • ワールドカップでの成績:優勝経験はなし
  • クラブでの成績:ブラジルリーグ優勝3回、南米王者1回、世界一1回
  • 監督としての成績:日本代表監督として最多の38勝

ジーコの成績【ワールドカップ】

3大会出場も優勝なし

ジーコは1976年に、22歳の若さでブラジル代表に初招集。

ブラジル代表では歴代5位となる48ゴール(71試合)を決め、MFとしては最多です。

ワールドカップは以下の3大会に出場しますが、優勝には至りませんでした。

開催年ジーコの年齢開催国ブラジル代表の順位出場試合得点
1978年25歳アルゼンチン3位6試合1点
1982年29歳スペイン2次リーグ敗退5試合4点
1986年33歳メキシコベスト83試合0点
合計14試合5点
トゥカーノ君
トゥカーノ君

1982年には5試合で4点と、もっとも躍動したね!

「黄金のカルテット」の一角

ジーコが出場した3大会の中で、ブラジル代表がもっとも輝いていたのは1982年のスペイン大会です。

ジーコは以下の「黄金のカルテット」の一角をなし、大会前までブラジルは優勝候補の大本命とされていました。

【黄金のカルテット】

  • ジーコ
  • ソクラテス
  • ファルカン
  • トニーニョ・セレーゾ

結果的にブラジルは2次リーグで敗退してしまいますが、4人のパスワークと攻撃力は「芸術」とも称されました。

ヒロ
ヒロ

今でも1982年のブラジル代表を「史上最高のセレソン」とする声も少なくありません。

ジーコの成績【クラブ】

フラメンゴ(ブラジル):1971~1983年

ジーコは14歳の時に、リオデジャネイロの名門「フラメンゴ」のユースチームに加入。

1971年にフラメンゴのトップチームに昇格すると、10年以上にわたってチームのエースとして活躍しました。

フラメンゴでは13シーズンで469試合出場、308得点をマークし、以下のタイトル獲得に大きく貢献しました。

【ジーコが獲得したタイトル】

  • トヨタカップ(世界一):1回(1981年)
  • コパリベルタドーレス(南米一):1回(1981年)
  • ブラジルリーグ:3回(1980年、1982年、1983年)

ウディネーゼ(イタリア):1983~1985年

1983年、30歳のジーコはイタリア・セリエAの「ウディネーゼ」へ移籍。

開幕4試合で6得点を挙げるなど華々しいデビューを飾ります。

2シーズンで53試合に出場し、30得点をマーク。

1983~1984年シーズンには19得点を挙げ、20得点の「将軍」プラティニに次ぐ得点ランク2位になりました。

トゥカーノ君
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出場試合数はプラティニの方が4試合多く、得点率はジーコの方が高かったよ!

フラメンゴ(ブラジル):1985~1989年

セリエAで2シーズン過ごしたジーコは、1985年(ジーコ32歳)にリオデジャネイロの名門フラメンゴに戻ります。

出場機会は減るものの、5シーズンで61試合に出場し、19点をマーク。

1987年にはブラジルNo1クラブを決める「コパ・ユニオン」優勝を果たすなど、ベテランとしてチームに大きく貢献しました。

住友金属 / 鹿島アントラーズ(日本):1991~1994年

1991年、38歳のジーコは鹿島アントラーズの前身「住友金属工業」のオファーを受け、3年契約を結びます。

1993年にJリーグが開幕すると、鹿島アントラーズのエースとして大活躍。

日本では通算で66試合に出場し、46得点をマークしています。

ジーコは「Jリーグの顔」として日本サッカーをけん引し、日本におけるサッカーブームの火付け役となりました。

ヒロ
ヒロ

1993年のジーコはすでに40歳。
それでも開幕戦ハットトリックなど、レベル違いのプレーを見せました。

ジーコの成績【監督】

2002~2006年:日本代表

1998年のワールドカップでブラジル代表のテクニカルディレクターを務めたジーコは、2002年に日本代表の監督に就任。

それまで監督経験はなかったものの、2004年にアジアカップ優勝を成し遂げるなど、通算71試合で38勝(歴代最多)の記録を樹立しました。

ジーコは選手の自律性を重視した指導を行いましたが、これはときに「放任主義」ともみなされ、2006年ドイツワールドカップ直前にチームが空中分解。

まとまりを失った日本代表は、グループステージ1分2敗で最下位に終わりました。

トゥカーノ君
トゥカーノ君

最後の試合は、奇しくも母国ブラジル。
前半で先制するものの、1-4と惨敗におわったよ。

2006年~:世界中のクラブ&代表チーム

日本代表監督の辞任以降は、トルコのフェネルバフチェをはじめ、各国の強豪チームや代表チームを指揮します。

イラク、カタール、インドなど、サッカー人気が低い国でも指揮をとっており、サッカー普及に対する熱意が感じられます。

【日本代表以降のジーコの監督経歴】

  • 2006~2008年:フェネルバフチェ(トルコ)
  • 2008年:ブニョドコル(ウズベキスタン)
  • 2009年:CSKAモスクワ(ロシア)
  • 2009~2010年:オリンピアコス(ギリシア)
  • 2011~2012年:イラク代表
  • 2013~2014年:アル・ガラファ(カタール)
  • 2014~2016年:ゴア(インド)

ジーコがなぜ日本の鹿島アントラーズに?日本での伝説

1980年代には「世界最高のサッカー選手」といわれていたジーコですが、「そんな大スターがなぜ日本にきたの?」と疑問に思う人も多いでしょう。

ここではジーコが鹿島に移籍した理由や鹿島での功績を振り返ります。

プロサッカー幕開けに関心があった

ジーコが鹿島アントラーズに移籍した最大の理由は、日本サッカー初のプロリーグ「Jリーグ」開幕に大きな可能性を感じたからだと言われています。

ジーコが来日した当時、日本はバブルの真っただ中。

各企業が日本のプロサッカーリーグを発足させるには今しかないと考えており、ジーコはブラジル政府のスポーツ大臣を辞任して、遠く離れた日本の鹿島にやってきます

ヒロ
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鹿島アントラーズは、自治体や地元企業が力を合わせて発足させたチーム。
「町おこし」に共感したジーコは、チームの顔としてアントラーズの地元定着に大きく貢献しました。

ジーコスピリット「献身・誠実・尊重」

ジーコが鹿島に残したものとして有名なのが、「ジーコスピリット」です。

「献身・誠実・尊重」の3つの軸からなるジーコスピリットは、「鹿島ファミリー」としての団結を重視。

当時は鹿島アントラーズのロッカールーム内に、現在はミーティングルーム内に飾られています。

トゥカーノ君
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鹿島が最多20冠を達成したのも、まさにジーコスピリットの賜物だね!

プロとしての勝利への執念

ジーコは住友金属時代から「プロ」であることを常に強調してきました。

時には、試合後半にバテてしまう味方選手に喝を入れたり、チームメートの食生活まで管理するなど、徹底した「プロ意識」を鹿島の選手に叩き込みました。

開幕戦でのハットトリック

1993年にJリーグが開幕すると。、ジーコは開幕戦でいきなりハットトリックを記録します。

チームは快進撃を見せたものの、ヴェルディ川崎にわずかに及ばず2位。

主要タイトルこそ逃したものの、その後訪れる「鹿島黄金期」の礎を築きました。

内閣総理大臣賞を受賞

Jリーグでの功績や日本での人気が認められジーコには、1994年に当時の羽田総理から「内閣総理大臣顕彰」が贈られました。

これは社会に大きく貢献した人や顕著な功績を残した人に贈られる賞で、外国人で受賞したのはジーコただ一人です。

ヒロ
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鹿島は外国人選手もブラジル人ばかり!
2022年にレネ・ヴァイラー(スイス)を招聘するまで、「ブラジル人主義」を徹底しています。

【ジーコの現在】2022年から鹿島のクラブアドバイザー

2018年から2021年まで、ジーコは4年にわたり鹿島アントラーズの「テクニカルディレクター」に就任します。

さらに2022年、69歳となるジーコは鹿島アントラーズの「クラブアドバイザー」に就任。

現在は岩政監督をはじめ、チームをまとめ上げる役を果たしており、イベントの告知などにも積極的に登場しています。

【2022年】Jリーグ&ワールドカップを視聴するには?

2022年現在、日本サッカーの放送サービスをまとめると、以下のとおりです。

2000年に国内3冠を達成した鹿島アントラーズですが、2018年のACL制覇を最後にタイトルから遠ざかっています。

ヒロ
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2022年は岩政監督のもと再建の兆しを見せており、久々のタイトル獲得も期待できるかもしれません。

また、なんといっても2022年はワールドカップイヤー

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トゥカーノ君
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